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杉原千畝「命のビザ」

杉原千畝「命のビザ」

○杉原千畝
日本の外交官。第2次世界大戦中、リトアニアのカウナスに領事代理として赴任していた時、ナチス・ドイツに迫害されていた難民、多くはユダヤ人であったが彼らに同情し、日本のビザを発給して彼らの亡命を手助けした。東洋のシンドラーとも呼ばれています。
1900年(明治33年)1月1日、岐阜県に生まれた。医者であった父の意に反して英語の教師になるつもりだったようで、ある日、図書館で偶然に外務省留学生試験の存在を知り、猛勉強を始めた。
1919年(大正8年)10月にハルピン学院(当時は日露協会学校)に入学。外務省留学生採用試験に合格して早稲田大学を中退し、外務省ロシア語留学生としてハルピンにわたる。

話は余談になりますが、昭和40-50年ころの外務省には、私が知る限りでもハルピン学院出身の外交官が結構現役で頑張っていました。

1926年ハルピンの日本総領事館の書記官として書き上げた本が外務省から高い評価を受け、26歳の若さでロシア問題のエキスパートとして頭角を現す。
満州赴任時代の1924年(大正13年)に白系ロシア人のクラウディアと結婚していたが、1935年(昭和10年)に離婚。それまでの蓄えは離婚の際に前妻クラウディアとその一族に渡したため、無一文になった。この時期に正教会の洗礼を受け、正教徒としての洗礼名はパヴロフ・セルゲイヴィチとなっている。
帰国後の千畝は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。
千畝は「杉原手記」のなかで、日本の「若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」旨のことを記しており、また、関東軍の横暴に対して「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが我慢できなかったんだ」と幸子夫人に述べている。
かようにして千畝は、ソ連と関東軍の双方から忌避されてしまった。

1937年(昭和12年)、フィンランドの日本公使館に赴任する。当初、モスクワ大使館に赴任する予定であったが、ソ連側が反革命的な白系ロシア人との親交を理由に、千畝の赴任を拒絶した。日本の外務省はソ連への抗議を続けたが、ソ連が最後まで入国自体も認めなかったために、行き先をフィンランドへと変更された経緯があった。

○カウナス領事代理時代
1939年(昭和14年)8月から1940年(昭和15年)8月。
当時千畝は39歳から40歳。
1939年(昭和14年)、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり8月着任。直後の9月1日にはナチスドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まるという時期でした。
当時、日本人が全くいないカウナスに千畝が赴任してきたことに地元紙は興味を持って取材をしたようです。

ちょっと余談になりますが、一般論として、大使館は国の首都にあって日本とその国との政治・軍事・外交・経済その他国どうしに係わる業務を担いますが、通常、領事館は、設置された地域の日本人の保護等の業務を主として行います。その意味でカウナスの地元紙が千畝の赴任に興味を示したのは、何せ日本人が一人もいないのですから当然といえば当然と言えるでしょう。

1938年(昭和13年)、ナチスドイツによるユダヤ人迫害の拡大に伴って、この事態に懸念を示すウイーン駐在の山路総領事は、大量の難民が日本に向かった場合どうするかについての対処方針を照会する請訓電を発出。
これを受けて同年10月、近衛文麿外務大臣から極秘の訓令が回電された。
その内容は、概ね次の通り。
「ドイツやイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者を日本に受け入れることは、大局上よろしくない。また、日中戦争下にある日本ではこれらの避難民を収容する余地はないのが実情で、今後この種の避難民の国内への入国は好ましくない(ただし、通過はこの限りではない。)。」

1940年(昭和15年)7月、当時リトアニアはソ連の占領下で、ソ連が各国に大使館・領事館の閉鎖を求めていたため、まだ業務を続けていた日本領事館にユダヤ難民が通過ビザを求めて殺到した。
千畝は本来の任務が東欧の情報収集や独ソ戦の時期の特定を目的として赴任していたこともあって、難民の殺到は想定外の出来事でさぞかしビックリしたに違いないが、人道上の配慮から発給条件を緩めて情状酌量によるビザ発給について請訓電報を打つ。
然しながら、本省からは発給条件厳守の指示が繰り返し回電されてくるばかりであった。

本省と千畝のビザ発給を巡る相違はどこから来ているのであろうか?
この相違についてあえて言及するならば、間近に日独伊三国同盟締結を控えてカウナスからの電信を重要視していない本省と、命の危険にさらされている難民を目前にしている出先の千畝の認識との温度差が最大の原因になっているように思われるが、如何でしょうか。

1940年9月5日、ベルリン向けの列車がカウナスを出発するまで千畝はビザを発給した。
このビザは番号が付され記録されているものだけで2,139枚に上っている。
当時のビザは、一家族について一枚のビザで充分であったため、少なくとも数千名の難民の国外脱出を助けたと考えられている。

○命のビザ:数千人のユダヤ人の命を救った東洋のシンドラー
千畝は東洋のシンドラーと言われてもいますが、シンドラーとはいったい何者か。
チェコに生まれたドイツ人実業家で名前は、オスカー・シンドラー。第二次世界大戦末期、ドイツ占領下のポーランドで自ら経営していた工場にユダヤ人を労働者として雇い、その労働者を保護することで、1200人ものユダヤ人を救った人。ユダヤ人労働者を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と言われており、この映画は有名になったので、ご存知の方もおられるでしょう。私も興味をもって視聴しました。ちょっと重たいですけどね。
ということで、このシンドラーの行ったことになぞらえて千畝は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになりました。

六千名に及ぶ命のビザを発給した杉原千畝。杉原夫人は、「カウナスでのあの一か月は、状況と場所と夫という人間が一点に重なった幸運な焦点でした。私たちはこういうことをするために、神に遣わされたのではないかと思ったものです。」と述べています。

1939年から1940年という千畝のカウナス赴任はそれより早くても遅くても、難民救済に効果を発揮しなかった。その赴任時期について、後に「タイムリー」と評価する声もあり、まさに時宜にかなったものであったといえるのかも知れません。
具体的には、①千畝着任直後におきたナチスドイツによるポーランド侵攻とそれ以前から始まっているユダヤ人への迫害。②それにともなう難民の大量発生・流出とドイツ勢力圏域外への脱出。③最後まで業務を行っていた千畝のカウナス日本領事館への通過ビザ発給を求めての殺到と千畝のビザ発給という決断。これらの点が「一点に重なった」ということでしょう。

○通過ビザ?
千畝がカウナスの領事代理時代に多くのユダヤ人に発給した命のビザといわれる日本の査証は、通過ビザという種類のものです。
通過ビザは目的地の国まで行く途中経由し通過する国のビザで、通常、滞在15日程度。目的地の国の入国許可を持っていること、目的地までの航空券等を持っていること、通過とはいえ旅のための十分な資金のあること。これらの条件を審査してビザを発給する、ということになっています。

千畝の場合、ビザ申請したユダヤ人たちの希望が日本を通過して第三の国、例えばアメリカへ行くという想定での通過ビザ申請を受けた可能性があります。
当然日本に住み着くことは認められず日本を通過するだけのビザですが、発給をするとなると責任を負うことになります。普通に考えればビザの審査は、先ほど示した要件が満たされているかどうかをチェックするわけですが、千畝のケースは日本の外務省から条件を緩めた大量の通過ビザ発給については問題ありとして否定され、発給条件を厳守するよう指摘されている状況ですので、東京の指示を無視した行為で一般論としてみれば行政官としてはあるまじき行動をとったということになります。

なお、千畝はカウナスを発つ出発直前まで列車の中においてビザを発給していたようですが、これは考えられることです。
というのは、今日でも緊急時の際には、即ち、停電や機器の故障、専属の回線の不具合等で超急ぎの人にビザを出せない事態になった場合を想定して、世界各地の責任者の必要事項を当該責任者の署名を含めて事前に東京に報告しており、そのための小道具も用意されていますので、千畝の事例は無きにしも非ずというように思います。

○北欧地域担当の相談役だったかっての自分
私がかって欧州に勤務し領事業務を担っていた時代、北欧地域も担当するビザを含めた領事の広域担当者だったことがあります。これは実務経験の豊かな者が指名されて、もろもろの諸問題についての相談窓口となる頼れる兄貴分的な存在としての役割が期待されていました。その当時、私はリトアニアのカウナスも担当地域に入っていたものですから、一度現場の領事窓口を見てみたいと思っていましたが、残念ながらその思いは実現できませんでした。
リトアニア訪問は当時おおきなチャンスだったかと思いますが、私の人生における男のロマンであった瞬間として今でも大切な思い出となっています。

○自分ならどうする?自問自答
さて欧州勤務時代に抱いたリトアニアに行ってみたいという願望は、杉浦千畝の命のビザに端を発したものでしたが、自分もビザ発給担当者のはしくれとして、近くに勤務していたこととも相まって自分が杉浦千畝の立場だったら一体どうしていただろうかという疑問は自分自身に対して常にありました。自問自答です。
まず、内面の自己分析から始めました。長年組織に生きてきてルールに従順になっている自分と生まれながらの性分ともいえる強い正義感、果たして自分だったらどちらの道を選ぶのか。昔、友人が会社の上司と喧嘩して辞めると言いだした時、その後の生活は?収入は?家族をどう養っていくの?と尋ねたことがありました。そう言った自分ですから、やっぱり保守的になってしまうのでしょうかね。本当のところはその時になってわかるのかもしれません。

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外国人のビザを専門とする目黒区自由が丘の萩原行政書士事務所です。
日本大使館のビザ発給責任者でした。
◎ビザ、在留、帰化、外国人雇用
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